義務化と現場のギャップ。少量多品種の研究用試薬で起きている「在庫把握」の空白
POINT
- 化学物質のリスクアセスメントは義務化されたが、研究現場でそれが実施されている様子は見えてこない。
- 少量多品種の研究用試薬には、事業所単位で「何がどれだけあるか」を把握する仕組みがない。
- 棚卸しは納入代理店の出荷履歴と目視の検品に依存し、使った量の記録は残らないまま運用されている。
2016年、化学物質のリスクアセスメント(RA)が事業者に義務付けられた。2026年には当初の規制に加えて、約850物質が表示・通知対象に追加されている。
一方、リスクアセスメントを守るために必要な「自分の事業所に、何の物質が、どれだけあるのか」の把握が現場では成立していない。
背景には、研究用試薬の世界が少量多品種であるという実態がある。今回、医療関連の化学物質を扱う企業にて、化学物質管理を担当するA氏に、インタビューを実施した。
試薬は「何本あるか」で管理されている。だが法律が見ているのは「規制対象の成分が全部で何リットルあるか」。小さなボトルでも本数が積み上がれば規制の量を超えるが、本数からその量は計算されていない。成分の割合はSDSに書いてあるのに、在庫数と掛け合わせる人が社内にいない。
リスクアセスメントは義務だが現場で実行するのは難しい。指定の物質だけわけることは非現実的かつ、保存容器はラベルも貼れない小ささになっている。守りようのないルールが並ぶため、ルール全体が「できる範囲で」扱われている。
明らかに危ないものだけ対応するため、自社が規制に引っかかっているのか分からない。気づかないうちに保管量が規制を超える状態が続いている。
化学物質による危険性・有害性を特定し、労働者がどれだけばく露するかを見積もり、その程度に応じて低減措置を検討する一連の手続きのこと。2016年6月から、SDSの交付義務対象物質を製造・取り扱う事業者に義務付けられている。製造する側だけでなく、購入して使用する側の事業場も対象になる点が見落とされやすい。
危険物には物質ごとに指定数量が定められており、事業所での貯蔵・取扱量がこれを超えると、危険物施設としての許可や有資格者の配置などが必要になる。指定数量の5分の1以上1未満は少量危険物として、市町村条例に基づく届出の対象となる。判定は製品単位ではなく含有成分の合計量で行われるため、少量の製品でも本数が積み上がれば該当し得る。
【お話を伺った方】
所属企業: 医療・研究機関向け化学物質(試薬等)取扱企業
担当業務: 化学物質管理、法規制対応、SDS作成・管理全般
背景: 研究開発現場での実務経験を経て、現在は化学物質・試薬を扱う事業者にて安全管理や法規制対応の実務に携わる。
インタビュー
義務化されているのに、現場ではできていない
--リスクアセスメントの義務化以降、研究現場での対応はどう変わったのでしょうか?
A氏:
私は以前、研究開発の現場で働いていました。当時はすでにリスクアセスメントが義務付けられていました。SDSの交付対象物質になるものについては、取り扱い事業所も含めてリスクアセスメントの義務がある、という状態でしたね。ただ、正直に申し上げると、実施されている様子を見たことがないんです。
--見たことがない、というのは?
A氏:
リスクを見積もる、有害性を見積もるための作業環境測定をする、そういうことが行われている様子を見ていない、ということです。当時使っていた試薬の中には原体もありましたけれど、おそらくリスクアセスメントはできていなかったのではないかと思います。研究者側にも施設側にも、リスクへの意識があまりなかったと思います。
--分野によってリスク管理についての意識の差はあるものでしょうか?
A氏:
あると思います。化学系の出身だったり、メーカーやプラントの現場だったりすると、そこは意識していると思うんです。ただ、バイオ系・生物系はそこの意識が低いのではないかと推察しています。
--現在の会社では、中身を開けて使う場面はあるのでしょうか?
A氏:
販売のデモンストレーションのときには実際に開けます。私たちの業界には、導入後の学術・技術サポートを担当する専門職があります。彼らは使い方や条件、出てきた結果の解釈といったところを扱うので、デモの準備で自分で触ることもある。なので本当はリスクアセスメントをやらなければいけないのだと思います。
--現場ではリスクアセスメントの対応ができていないことが課題として認識されているのでしょうか?
A氏:
正直、課題と捉えることは少ないです。解決策があっても「やっていないからいい」という反応です。「やらなければいけないんだ」という意識改革から始めなければいけない状態です。
規格と現場の間にある大きなギャップ
--保管の実態についても伺えますか。毒物・劇物に該当するものもあると思いますが。
A氏:
該当するものはあります。本来は鍵付きの場所に入れなければいけないんですけれど、そもそもその品目だけを単体で仕入れているわけではないんです。複数種類の試薬が1つの容器やプレートに一体化されているキット製品などでは、その品目だけを分離して保管することができません。
--製品の形態そのものが、法令の求める保管方法と噛み合っていないと?
A氏:
そうなんです。たとえば、JIS規格では「試薬1つに対して1センチのラベルを貼ってください」となっている。でも、そもそも容器そのものが指先ほどの大きさなんですよ。梱包されている状態の小さな容器に、貼りきれないような大きなラベルを貼れと言っている。管理用のラベルもあるので、対応は難しいです。
--監査で指摘される場面はないのでしょうか?
A氏:
定期的に監査が入るという話は聞いたことがあります。ただ、実際のところは実態に合わせて運用されているのだと思います。摘発されて報道されるケースは、たまに見ますけれどね。

数えているのは「入った数」だけ。棚卸しはどこで崩れるのか
--在庫の個数管理は、どのように行われているのでしょうか?
A氏:
サプライヤー側(輸入・販売側)の受入時には、可能な最小単位まで確認して在庫個数を管理しています。毒物・劇物やPRTR法にかかる物質については、基本的にその都度、入出庫の管理といいますか、いくら使ったという記録は残しています。
--逆に言えば、それ以外の品目は入ってきた数の管理が中心になると?
A氏:
そうなりますね。個数としては管理していますが、どれだけ使ったかというところまでは、対象物質以外では追っていません。
--大学の研究室ではいかがですか?
A氏:
きちんと管理しているラボがあると聞いたことはあります。ただ、同じ大学内でも管理のやり方は差があります。ラボごとに使う量の単位が違うし、「何ミリリットル使った」と記録している様子は、やはり見たことがないですね。
--その状態で、実務上まずいことは起きないのでしょうか?
A氏:
私が危惧しているのは、たとえば消防法です。指定する量が決まっていて、取り扱う試薬は小さい容器に入ったものが多いので、そのうちの何割かという話になります。指定数量の単位はリットルなので、そんなにすぐ到達しませんが少ない量でもまとまってくると該当物質の量は増えていくわけです。それをそのまま保管していたら、消防法に該当するものを指定数量以上保管している場所になる。そこまで管理するのは実際には難しいと思います。
--本数が積み上がった結果として、気づかないうちに該当してしまうと?
A氏:
はい。在庫の数によって該当するのかしないのかが変わる、という論点ですね。おそらく、同じことはいろいろなところで起こっていると思います。
--現状、この領域で本当に困っている人は少ないという印象でしょうか?
A氏:
やらねばならないけれど現実的にできない、という面が大きいと思います。物理的に難しいことが多いうえに、手間も費用もかかりすぎる。だからやらない、という判断になってしまう。
--サービスとして成り立つ余地はありそうですか?
A氏:
今後罰則が厳しくなれば、管理に対する意識が上がると考えています。
化学物質系の法律は罰則の整備が進んできていますし、緩くなることもありません。そうなればサービスが入る余地があると思います。
今はまだ表に出ていないだけで、何かが起きたときには、しっかり追及される領域ではあるんです。だからこそ、今後管理をサポートするサービスが注目される余地があると思います。
課題まとめ
研究用試薬は、1本あたり数ミリリットル、多くても5ミリリットルという単位で流通します。複数種類の試薬が1つの容器やプレートに一体化されたキット製品として出荷されることも珍しくなく、細胞培養に使う液であれば500ミリリットルのボトルが棚に並びます。単価も容量も小さい一方で品目数は膨大になり、サプライヤー側(輸入・販売側)の受入時には可能な最小単位まで確認して在庫個数を管理しているものの、その後に誰がどれだけ使ったかという払い出しの記録は基本的に残りません。
結果として、棚卸しの起点は納入代理店の出荷履歴、つまり「入った数」だけになります。毒物・劇物やPRTR法の対象物質については都度の入出庫記録が残りますが、それ以外の品目は個数管理にとどまります。大学の研究室でも、使った量を記録している様子は見られないといいます。対象物質が増え、事業所単位での把握が求められるほど、この方式は限界に近づいていきます。
さらに、規格と現場の間には物理的なギャップがあります。JIS Z 7253は容器の最小単位ごとにGHSラベルを表示することを求め、絵表示は視認性の観点から1センチ四方程度を確保することが望ましいとされています。しかし指先ほどの容器に1センチ四方のシールを貼れば、他に貼るものがなくなります。毒物・劇物に該当するものは施錠できる場所への保管が求められますが、複数種類の試薬が1つの容器やプレートに一体化されているキット製品などでは、その品目だけを分離して保管することもできません。守りたくても守れない規格は現場に浸透せず、表面上は誰も困っていないように見えます。それでも、消防法の指定数量や、紛失・持ち出しが起きたときのトレーサビリティという形で、リスクは静かに積み上がっています。
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